劇団三毛猫座 第八回本公演『不思議の国のアリス』 劇評

撮影:中谷利明

 

上念 省三(舞台芸術評論)

 

 改めて台本と原作の文庫本を読み返して、ふんわりと考えているのだが…要は、なぜこんな風になっちゃったんだろう?、ということだ。

 ぼくらは原作のみょうちきりんな展開を、無意識にか脳内で補綴しながら、マイルドに読み直して、うわべすんなりと愉快な物語として、そう、ディズニー映画のヴィジュアルイメージそのまま、楽しく受け入れていただけだった。本当はほうほう(這う這う)のていで全力でアリスについて行かなければいけなかったのに。それが、この上演では、一切の補綴がないどころか、むしろみょうちきりんをへんてこりんにアンバランスに増幅して、アリスの歩いて行った道を掘っくり返したり、とっぴんしゃんと閉ざしたりして、障害物が林立するコースみたいに、リアルに実現されていた。

 だから、ついて行くのが楽しくなった。

 演劇はほとんどの場合、閉ざされた一定の空間の中で終始する。のに、どこへでも行けるのは、なぜなんだろう。ここではおそらく副産物産店による舞台上のブツのせいで、行く手が阻まれ困難を極めると同時に、どこへでも行ける細道が用意されてもいた。出演者が動かすブツには、たくさんの小さなブツが重なり絡まり縺れあっていた。

その中には、そこから「作品」が旅立っていった、抜け殻のようなフレームもたくさんあった。様々なアーティストのアトリエから出る廃材を"副産物"として再利用しているそうだ。図と地でいうなら、地の集積。そこで地と図が反転しているのかと思えば、おっとどっこい、それらフレームたちはやはり瓦礫のように打ち重ねられている。せっかく拾ってもらったのに。はかない。

 そして、言葉だ。ご承知のようにアリスの体が小さくなったり大きくなったりするわけだが、なぜか上演の中では、物語のメインテーマのようにしょっちゅう、のべつまくなく大きくなったり小さくなったりしていたように思える。枠組みと背景と、遠近法や伸び縮みするドアによるアナログと、そして言葉という仕掛けの数々によって、アリスは大小を繰り返す。それらの仕掛けは、もう一歩で的確!といえる感じのちょっとざっくばらんな感じをもっていて、その緩さがまたたまらない。

 演劇って、生の舞台芸術って、普通はCGで人間を消したり巨大化させたりしない代わりに、あの手この手でそれらしく見せようとする涙ぐましいまでの努力が共感を呼んだりするわけで、ここでもそうだった。わずか数メートルで現前する遠近法は、観客の共感的飛躍性想像力によって無限のかなたに人物を飛んで行かせるし、穴に落ちたアリスの無重力感を「…はぁ、この⽳、いつ終わるんだろう」という無邪気な独白だけで簡単に(?)共体験することができるのだから、恐ろしい。

 さて、夢落ちでもあり、暗転するかと思えば、しない。夢が延々と続いていたからか、今も実は続いているからかは、知らない。でも、アリスが今もトランプのカードや布切れが散乱する中を小さくなりながらロブスターやいろんな踊りを踊ったり走り回ったりして、ウサギやウミガメのことを思い出すことがあるのだとしたら、というのはぼくらが思い出すからなんだけれど、この三毛猫座アリスのただただへんてこりんさを思いっきり強調するへっぽこな時間をこのワンダーランドのブラックホールに吸い込まれちゃって出れないぼくらの限界地点でのコミュニティだと考えていいよね。


 

上念省三(じょうねん・しょうぞう)
ダンスを中心とした舞台芸術評論。西宮市文化スポーツ課アドバイザー。

神戸女学院大学、京都女子大学大学院非常勤講師。神戸在住。